【岡山】偉人伝 田原用水
古くから田原用水の流域は、灌漑用水に乏しく、日照りににより度々の飢饉があったようです。
元祖、田原井堰
1624年~1628年頃
岡山藩主 池田忠雄の時代に田原井堰と田原用水が造られたようです。
当時の堰は、じゃかご(蛇篭)といわれる竹籠に石を詰めたもので築いた堰だったようです。
岡山藩 津田永忠が改修した田原井堰
1681年~1686年頃
以前に蛇籠で築かれた堰は、洪水の度に流されたり、築後50年以上も経過すると裏石が抜けたり、沈むなどから、岡山藩 津田永忠により改修が行われています。
改修された田原井堰は、流れる水の力がかからないよう斜めに長く、底には捨石を敷き詰め、巨岩を組み合わせた堅固なものとなっていたようです。
現在の新田原井堰
昭和54年から国の事業として8年間をかけて多目的な新田原井堰が造られています。
それにより・・・・なんと、旧田原井堰は、見事なまでに跡形もなく撤去されています。
旧田原井堰は岡山県指定史跡となっていたのですが・・
昭和40年頃から水不足になったとは言え、こういった史跡を残そうという考えもなかったのでしょうか?
さて、タイトルの「石の懸樋」は、田原用水が小野田川と交差する場所(赤磐市徳富)に架けられていました。田原用水の中間から少し西に行ったあたりになります。
田原用水の開墾は、二度に渡って行われています。
なぜ、ここまで長い期間の断絶があったかというと、①熊野の岸険(ほき)、吉井川に突き出た岩山を削る難工事 ②森末の切り抜き、崩れやすい地質の台地を掘り下げる難工事が障害になっていたと言われています。
また、田原用水と小野田川を交差させる高度な技術が欠如していたこともその原因といわれています。
しかし、津田永忠が大阪から招いた石工河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団によって小野田川を交差する難関を突破しています。
移設先は、数百メートル南です。岡山市の江国石材により解体、復元されています。
小野田川改修前、昭和57年の画像(現地案内板画像より)
3本の石柱による橋脚2基、石樋の上には4本の石製の梁で洪水にも耐えられるよう補強がされています。
よく見てみると、懸樋は小野田川に対し少し斜めにかけられているようです。
しかし、橋脚は小野田川の水流に対し直角に据えられており、懸樋とは水平でなく、わざと角度をずらしています。
昭和57年、移設前の画像(現地案内板画像より)
県道に立てた看板、ここを何度も通っていましたが、今まで気づきませんでした。
画像奥の土手を上がらず斜め左に行く細い道の先にあります。
細い道を抜けると、少し広い場所に・・・
車は数台置けそうです。
しかし、こういった偉業でこの施設、なぜか寂しい限りです。
これは、以前に石の懸樋があった場所、道路の向こう側が田原用水です。
小野田川も渇水というか、今は使われていません。
現在の小野田川です。
田原用水は、小野田川の下を通して用水が流れているようです。
津田永忠の偉業を訪ねてパート2でした。